[プロフィール]
大阪大学大学院工学研究科修士課程修了、同博士課程中退
福岡大学理工学部化学科助手、龍谷大学理工学部物質化学科助手、2001年より現職
ハンガリー国コシュート大学と米国アリゾナ大学にて客員研究員
X線分析を用いた種々の金属化合物・金属錯体の状態分析、考古遺物および関連試料・森林土壌および環境水の科学分析
分析化学の研究には2つの側面があって、1つはさまざまな分析手法を使って、ある対象物質の状態や、なぜそのような機能を発するのかを詳細に明らかにします。もう1つは手法の方にこだわって、例えばX線分析ならその装置の性能をもっと高めるとともにできるだけ多くの情報を引き出し、対象物質の範囲を広げて今まで簡単にはできなかったことを可能にしていくというものです。
当研究室ではX線分析を中心とした機器分析化学を研究テーマに、金属材料のほか、混合複雑系であるため分析が難しいとされる考古試料や環境試料に対しても研究を行っています。測定方法を工夫することで、X線の潜在能力を引き出して測定データの精度を向上し、簡便で信頼性の高い新しい分析手法の開発にも取り組んでいます。
機器分析で使われる電磁波にはたくさんの種類がありますが、めったに使われないγ線を除きX線はその中でも波長が最も短くてエネルギーが最も高く、簡単にエネルギーを発生させることができるうえ、取り扱いも比較的容易です。多種多様な分析法があり、以下のような特徴があります。
X線分析が得意とするのは原子番号が大きい元素ですので、金属やセラミックスなどの無機材料を分析するのに適しており、有機化合物を測るのは苦手です。医療用のX線のように有機物も測ることのできるエネルギーの低いX線は、大気中の酸素や窒素と相互作用するため、分析での取り扱いが難しくなります。
研究室では、X線分析のそれぞれの手法ごとの特性を活かして、信頼性の高いデータを出すことを目的に、金属化合物や金属錯体の構造や電子状態の解明に取り組んできました。また、通常はX線分析が難しいとされてきた、有機物と無機物が混じった考古試料や環境試料を敢えて対象にして、線源を変えたり、測定時間を長くしたり、細かく測定したり、また通常とは違うエネルギー領域を検出したりするなど、測定法や解析法をいろいろ工夫することで、X線とそれを用いた分析法が秘めた能力を引き出すことを目指しています。
考古試料には生物遺物や布、紙、印刷物、木製品などの有機物、土器、石器、ガラス、陶磁器、金属、鉱物などの無機物などがあります。さらに、絵画のように岩絵の具などの無機物が有機物の上に塗られていることがあり、それらの多くは無機物と有機物が複雑に混合しています。削り取ったりできない試料が多く、基本的には非破壊分析になります。また、組成が明らかでない場合が多く、その場合は定量分析に必要な標準試料を、元素ごとに存在量の異なる標準試料を多数用意する必要があります。
研究室では、大谷探検隊が持ち帰った貴重な資料のいくつかをX線分析で解析しました。その一つ「せん仏」は、純粋な石膏ではなく不純物のストロンチウムを少量含んでいたため、精製する技術が未熟な古い時代に作られたことがわかりました。さらに、肉眼ではわかりませんが顔や手など露出した肌の部分のみにヒ素が観測され、雄黄と言われる硫化ヒ素の顔料が塗られたのではないかと推測しました。塗られていた範囲が明らかになり、彩色されていた「せん仏」の元々の色のほかそれが塗られていた意味などを類推できることもわかりました。
他にも大谷文書の紙を試料として、材料繊維の種類や状態、紙を漉く時に使用した川水に含まれていた成分、製紙工程で用いられる表面処理剤などの微量成分を分析して、製法や産地による分類の可能性を見出しました。
また、研究室の学生が、江戸時代初期に作られた「伊勢物語」に使われている赤の顔料を極微量採取して、X線光電子分光法(XPS)で電子状態から発色の原因を追究しました。赤の顔料には鉛系の鉛丹(四酸化三鉛)と水銀系の辰砂(硫化水銀)の2種類があり、多くはこれらを混合して使われています。2つの顔料を混ぜた時や、膠を加えた時、加熱した時に色と化学状態が変化することが明らかになりました。さまざまに色合いの異なる赤を描き分けるために、混ぜたり加熱したり、絵を描く人には感覚的に分かっていたことが、電子状態から検討できることが明らかになりました。
X線光電子分光装置(XPS)
X線を試料に照射して、真空中に放出された光電子の運動エネルギーを測定することで、固体中の各元素の電子状態分析を行うことができる。
考古試料のX線分析
「伊勢物語」に使われている赤の顔料をX線光電子分光法で分析して、電子状態からさまざまな色合いに発色する原因を検討した。
環境試料では主に環境水と森林土壌が対象で、環境水についてはケイ酸イオンの濃度が低下するシリカ欠損に注目して、大津市南部を流れる大戸川周辺のケイ酸イオン濃度の変化をモニタリングしました。
ケイ酸イオンの周りに12個のモリブデン酸ユニットが取り囲んだモリブデンブルーの色の濃さでケイ酸イオンを定量する吸光分析を行うと、時間変化とともに吸光度が減少することが観測されました。モリブデンブルーの発色が不安定である原因を明らかにするため、分子モデルを作成して分子軌道計算を行いました。電子密度マップを見ると、表面の電子の分布が平均化されて、水に溶けにくい状態になっており、時間が経つと沈殿して吸光度が下がることがわかりました。これは吸光分析実験でも確かめられていますし、X線分析と分子軌道計算の結果は一致しています。
森林土壌は非常に分析が難しい試料ですが、細かくサンプルを採取して、落ち葉の植生別サンプルと、腐植土の深さ別サンプルを作成して、核磁気共鳴法などいろいろな手法で分析しました。腐植化過程のように分子量が大きくなり高分子化すると、分析が格段に難しく複雑になります。個々の分子を完全に分離して調べるのが分析学の王道ですが、視点を小さくしその部分を拡大しすぎると木を見て森を見ないことになる恐れがあります。得られるデータ量も莫大になり、結局は評価できなくなってしまいます。そのため、多くの反応が並行してまた連続して起こることを、一つの尺度に落とし込むことが望まれます。そこで、腐葉土となる落ち葉の腐植の進行度合いの数値化を試みました。腐植の程度を評価する方法がわかると、メイラード反応など他の褐色化反応への応用が可能となり、これらの褐色物質を培地に加えて微生物の育成を促進する研究に役立てることができるかもしれません。
分析装置が高度化して、いろいろな手法が生まれたことで、より細分化された多元的な情報が簡単に得られるようになりました。しかし、それが解釈や評価を難しくしている一面があるため、単純化することも必要ではないかと考えています。
化学は細かな違いを見極めようとする学問ですが、例えば環境の立場から森林土壌を研究している研究者には、全体を見て共通性を見つけるという視点があります。一般的な科学の本質は、新規性すなわち特殊性の追求ですが、考古や環境の分野では、時代や地域ごとの共通性や一般性にこそ価値があります。特殊性を求める立場だけからではなく、共通性・一般性の価値にも着目して、なんとかこの間をつなげることはできないかと思っています。それは、混合複雑系を一つの尺度から数値化することに伴う単純化であったりすると考えています。
こういう見方をしたら共通性が生まれるのではないか、価値がないと思っていたことも別の視点では価値のあるものに変化するということを視野に入れながら、今後も研究を続けていきたいと考えています。
当研究室では、X線分析と分子軌道計算という理論計算を組み合わせて、有機物無機物を問わずほとんどのものを対象にして、電子の姿から物質の姿や性質を明らかにすることで、ものづくりをされている企業の問題解決をお手伝いしたいと考えています。また、分析技術者の教育という点でもお役に立てるのではないかと思っています。
ただ、産業界と大学がなかなかコラボレーションできないのは、お互いに価値を見出しながらも、課題解決にかける時間への感覚のズレがあるからだと思います。大学の研究室では基本的に1年のサイクルでものを考えていますので、何か研究課題をいただいてもすぐに解決できない場合があります。学問的に問題の背景もきっちり解明したいという研究室の立場をご理解いただけたなら、共同研究の機会も増えるのではないかと期待しています。